長州への旅8 高杉晋作回天義挙の地 功山寺


下関・長府城下町散策 続きです

壇具川べりを上流に歩いて10分すこし
長府毛利家の菩提寺 金山功山寺の総門の前にでます

功山寺総門

旧山陽道に面して十数段の石段の上に建っています
創建時の室町時代中期建立、禅宗様、四脚門、木造、瓦葺き、間口4.4m
国登録有形文化財に指定されています

功山寺総門2

門の右側の大きな表札に 中国観音霊場 第19番 と書いてあります
10年ほど前に 観音霊場めぐりを1年かけてしまして その時にもこのお寺にはお参りに来ているのです
掲額の“海右第一峰”右側の“不許葷酒入山門”の石牌に古刹感が漂っています
海右の右は 山号の金山の金とともに 西を意味し 西方第一の禅刹ということでしょうか

では 続きをご覧くださいね 
 

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続きです

ここで 功山寺について ちょっと説明をしますね

嘉暦2年(1327年)、虚庵玄寂を開山として臨済宗の長福寺として創建された。開基は北条時仲と推定されている。なお、仏殿の建立は上記創建年より早い元応2年(1320年)である。正慶2年(1333年)に後醍醐天皇の勅願寺となり、建武3年(1336年)には足利尊氏から寺領が寄進されるなど、朝野の尊崇を得て栄えた。
室町時代には大内氏の庇護を得、文明8年(1476年)には大内政弘によって復興された。弘治3年(1557年)、周防大内氏最後の当主大内義長が境内で自害した後、寺は一時衰退する。
慶長7年(1602年)、長府藩主毛利秀元が金岡用兼を招聘し、曹洞宗の笑山寺として再興した。慶安3年(1650年)、秀元の没後、功山寺に改名された。
幕末の文久3年(1863年)、七卿落ちで京を逃れた7名の公卿のうち5名が滞在。高杉晋作は当寺で挙兵した(回天義挙)。Wikipediaより引用



功山寺の境内図です

功山寺境内図

総門をくぐると の左手に 地蔵堂があります

県指定文化財の地蔵菩薩半跏像 を祀っています

功山寺地蔵堂 

地蔵堂を過ぎると 目の前に石段 上がったところに 山門があります

功山寺参道石段

山門は 安永2年(1773年)建立 市指定文化財ですが 最近の調査によれば柱の沈下など全体的に傾いた状態で、山門内部の梁・木組みが破損しており、災害時には倒壊の危険性があり、速やかで根本的な改修の必要性が指摘されました。
で 現在 山門大改修工事中です
下の写真は 2006年11月撮影した分です

功山寺山門

痛みは相当ははげしいですね

功山寺山門2 

山門はくぐれないので ぐるっと回っていきます

ここは 長府博物館ですが もともとは 昭和8年10月、長府在住の桂弥一が尊王精神の高揚を図るために設立した長門尊攘堂が前身で戦後は 財団法人長府博物案に組織替えし 今は下関市立長府博物館です
この写真は 以前に写したぶんですが 今回は 「花燃ゆ」展をしていました あまり興味なくて 入っていません

博物館本館(旧長門尊攘堂)は平成11年6月7日、戦前の博物館施設の典型として、国の登録有形文化財に登録されましたl;">

長府博物館


お目当ての国宝仏殿の前に出ました
鎌倉時代建立の代表的な木造の禅宗様式建築で、典型的な唐様仏殿としては、我国最古 元応2年(1320)卯月5日柱立で す
内陣の天井は鏡天井で石南花を描き、外陣は化粧屋根裏、床は四半瓦敷で建物は一切彩色せず 鎌倉の円覚寺舎利殿と共に仏殿建築の代表と云われています

功山寺国宝仏殿

仏殿は通常は公開していなくて 以前に来た時もガイドさんが 柵の外からお参りし 灯明 お賽銭をあげ 納札をしてくださいと言われました
たまたまその日は1月17日の初観音で仏殿の中からお経を唱える声が聞こえました
中から出てきた人に 入ってもいいですかと聞いたら どうぞ と言われたので 私と一緒にいた姉は中に入りました
お坊さんが お経を唱えておられましたので 仏様もまじまじと見たり ましてやカメラなど向けられません
一番後ろに並んで ちらッとだけ御顔を拝んで お賽銭をあげて出てきました 天井画のシャクナゲなど全く見もしてません
出口で お菓子をいただいてきました
檀家さんたちの初観音の仏事に紛れ込ませていただき バスツアーの人にうらやましがられたのも懐かしい思い出です

今回は 左手の小さな受付のようなところにも人影はなく 柵の外からお参りしました

功山寺国宝仏殿

仏殿の左手を上がっていくと 大内義長の墓があります

仏殿と向かい合って山門です
屋根の瓦がきれいに並びなおされていますね

功山寺山門

新緑のイロハモミジでしょうか 眼にしみるようなきれいな色です

木の下のお地蔵さん

法堂(はっとう)です
法堂とは 仏教寺院において、僧侶が仏教を講義する建物の事で おもに禅宗では法堂と呼び 他の宗派では講堂と呼ばれることが多いです

法堂

法堂の大棟のかわらは 菊と桐

法堂の棟瓦


法堂の前には 高杉晋作回天義挙の像が立っています
この高杉晋作像は 下関の維新ファンである旅館経営者が銅器で有名な富山の高岡に晋作像を作らせて旅館に飾ってあったのだそうです
功山寺に高杉晋作像を建てようという計画があるのを知り 晋作像は 功山寺にあってこそ生きると快く提供されたとか
偉い人ですねぇ

高杉晋作像

回天と聞いたら 今は たいていの人の頭にまず浮かぶのは 回転ずし
高杉晋作の回天義挙とは なにぞや?
花燃ゆを 時々見る程度では わかりかねます

功山寺挙兵ともいうようですが 元治元年12月15日(1865年1月12日)に高杉晋作が長州藩俗論派打倒のために功山寺(下関市長府)で起こしたクーデターをさします

禁門の変(元治元年7月19日)により 長州藩は朝敵となり 第一次長州征伐が行われ三家老は切腹し 実権が椋梨藤太の俗論派が握ることとなった 俗論派は厳しく粛清を行い 都を逃れて長州まで来て功山寺に潜んでいた五卿(公家)を大宰府に移送しようとします

五卿潜居の解説版

これを聞いた高杉晋作は 功山寺に赴き 五卿に挨拶をして 藩に逆らい挙兵するのです 
功山寺に集結したのは伊藤俊輔率いる力士隊と石川小五郎率いる遊撃隊のわずか84人だけであったが 下関の藩の会所を襲い物資をし調達します
そのうちに 挙兵を聞いた井上門多(のちの薫)や山形狂介(有朋)率いる奇兵隊も協力し  長州藩は討幕へと統一されていくのです
回天とはくるっと回って元通りといった意味で天皇制に戻そうということだそうです

この時奇兵隊の指揮をとっていた山形狂介はのちの山形有朋  伊藤俊輔は 伊東博文 明治の元勲たち まさに幕末の勝ち組さんですね
20代で死んでいった高杉晋作や久坂玄瑞 吉田松陰たちは 草葉の陰から喜んだのか 悔しがったのか ・・ 喜んだのでしょうね

高杉晋作像の自然石の立派な台の下部に 題字のプレートがはめ込まれていました

高杉晋作像 マーク付き

丁寧に書かれた立派な字です
この字を書いたのは 岸 信介 安倍総理の母方の祖父です

晋作像題字

岸信介 山口市生まれのもと内閣総理大臣(1957~1960,07,15) 60年安保のときの総理大臣で 昭和の妖怪と言われた人物です
この人の長女が安倍晋三総理の母親なのです

最近の政治家は ちょっと見たくないほどのひどい字を書いているように感じます
最近の歴代首相の文字を集めたまとめを見つけました

歴代総理の「字」を確認して不安を感じた 気になったら クリックしてちょっと見てね

政治家を目指すのなら 自分の名前と色紙に書く程度の文字は ちゃんとした書家にお手本を書いてもらうなりして稽古をすればと思いますね
小学生並みの文字では恥ずかしいですよ
書道大会では小学生でも もっと上手ですね

政治的には岸信介元首相は嫌いでしたが 昔の政治家は 揮毫(きごう 毛筆で文字や絵をかくこと。)して残っているのを見ても立派な字を書いている人が多いですね
今の人は 小中学生のような丸文字だったり 麻生さんのようなひげだらけの字だったり 書を習ったような文字ではないですね

今日 国会で安保関連法案が衆院委で与党により強行採決されて通りましたね
昭和の妖怪が生き返って 孫にのりうつったのかしら・・

脱線しました

功山寺は大木がいっぱいあるお寺でした

功山寺の大槇 全体を写せる位置を見つけられませんでした

S12_20150514_076.jpg

功山寺 林

このあと 毛利家の別邸に行きました
次回書きますね 素敵なお庭がありました


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カメラ機種名 Canon PowerShot S120
撮影日時 2015/05/14
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