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長州への旅2  壇ノ浦 二つの戦


長州への旅と名付けましたが 長州とは 

江戸時代に周防国と長門国を領国とした外様大名・毛利氏を藩主とする藩。家格は国主・大広間詰。 幕末になると長州藩は公武合体論や尊皇攘夷を拠り所にして、おもに京都で政局をリードする存在になる。また藩士吉田松陰の私塾(当時の幕府にとっては危険思想の持ち主とされ事実上幽閉)松下村塾で学んだ多くの藩士がさまざまな分野で活躍、これが倒幕運動につながってゆく。Wikipediaより引用



このあたり ちょうど今 大河ドラマでやっていますね
今日ご紹介するところは 先週大河ドラマで写った所です

唐戸で昼ご飯を済ませてから バスで関門橋に向かいます
「みもすそ川」という舌をかみそうな名前のバス停で降りました
漢字で書くと 「御裳川」
伊勢の五十鈴川の別名も御裳濯川(みもすそがわ)
こちらは裳の汚れをすすいだ故事からついた名前だとのことです
とは 当時の宮中の女人たちが着ていた十二単の後ろに裾を引いたプリーツスカートのような部分のことをいいます

ここは 関門海峡が一番狭まっているところで 早鞆はやともの瀬戸と呼ばれる海上交通の難所です
ここを国道2号線は海底トンネル(1958年開通)で渡り 1973年には関門橋(高速道路)が開通しました

関門橋

橋の下になにか見えますね

ここは 壇ノ浦 源氏と平家の壇ノ浦合戦の古戦場です
二位の尼(平時子 清盛の正室 安徳帝の祖母) が 安徳帝を抱いて入水したところなのです

では 道路を渡って 橋の下にある像を見に行きましょう

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続きです
みもすそ川は 今は暗渠になっているようで どこにも川ありませんでした

みもすそ川跡

赤い橋の欄干だけがありました

みもすそ川 欄干

ここは壇ノ浦の古戦場

壇ノ浦合戦場

都で栄華をほしいままにしていた平氏は ここ壇ノ浦で海の藻屑と消えていったのです

義経・知盛像

左が八艘飛びをしている義経 右は碇を担いで海に飛び込もうとしている平知盛(清盛の四男 平徳子(健礼門院)は妹)

2005年にNHK大河ドラマでタッキー(滝沢 秀明)主演で「義経」をしましたが この像が建てられたのは 2004年 放映直前のことでした
大河人気を当て込んだのでしょうね
像は公募したイラストをもとに作られました
だから昔のものと違って劇画風 かっこいいのです

義経

知盛

足元には俳優たちの手形のレリーフがありました

また 二つの像の間には この場所について説明をしたパネルがありました

日本史の節目を刻む関門海峡

 西へ東へと一日に四回、その流れの向きをかえる関門海峡。
 せまい所では、両岸の幅は700メートルあまりで、潮流の速度は、最高で約10ノット(時速18キロ)にもなります、
 また、瀬戸内海の入口に位置する地理条件から、昔も今も交通の要衝で、日本の歴史を刻む舞台となっています。
 寿永四年(1185)三月二十四日、平知盛を大将にした平家と、源義経ひきいる源氏がこの壇之浦を舞台に合戦をしました。
 当初は平家が優勢でしたが、潮の流れが西向きに変わり始めると源氏が勢いを盛り返し、平家は追い詰められました。
 最期を覚悟した平知盛が、その旨を一門に伝えると、二位の尼は当時数え八歳の安徳天皇を抱いて入水。
 知盛も後を追って海峡に身を投じ、平家一門は滅亡。日本の政治は貴族から幕府による武家政治へと移行していきました。
 なお、この戦いにおいて義経は平教経の攻撃を船から船へと飛び移ってかわし、いわゆる「八艘飛び」を見せたといわれています。

≪看板より≫引用



二位の尼辞世の歌

二位の尼入水 碑


安徳帝御入水之処

 二位尼辞世

今ぞ知る みもすそ川の御ながれ
波の下にも みやこありとは

(長門本平家物語)



平家の女人たちの衣類からみもすそ川と名がついたといわれているのに 辞世の歌にみもすそ川の名前が出てくるのはちょっと???です
後世の創作?

平知盛の碇担ぎは 平家物語では鎧を2枚重ねてきて飛び込んだと書かれていますが 歌舞伎「義経千本桜 2段目 大物の浦」では 碇を担いで入水します
浮かび上がってきて敵に捕らわれるのを避けたかったのでしょうね


東に目をやると 時代は変わります

1185年から1863年に飛びます

幕末 下関は長州藩に属していました
尊王攘夷を進めていた長州は この海峡で(当時は馬関海峡と呼んでいました) イギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強四国との間で 戦かったのです
海に面した見晴らしのいいところに砲台を作って攻撃をしたのです
ここは 壇ノ浦砲台跡

レプリカです 五門のカノン砲が 並んでいます ・
どれか一門は 硬貨を投入することで 砲撃音と煙の演出を楽しむことができるらしいのですが どれだったのだろう

長州砲


↓が原寸大 精密に作られた長州砲(日本製)のレプリカです

長州砲

壁に張った説明板によると

幕末 関門海峡での6次にわたる攘夷戦は、元治元年(1864)8月 長州藩兵と英・仏・蘭・米4か国連合艦隊との交戦をもって終結した
下関海岸砲台に装備された長州製の青銅砲は、すべて戦利品として外国に運び去られた
 1966年春 渡欧中の作家古川薫氏がパリ・アンバリッド軍事博物館に保管されている攘夷戦長州砲を発見 以来 返還運動がすすめられた。
郷土出身の外務大臣安倍晋太郎氏の努力とフランス政府の好意によって 1984年6月、貸与の形式で里帰りを見るに至った
この機会にフランス政府の了解を得て 下関東ロータリークラブが原寸大かつ精密な模造品レプリカを作って 下関市に寄贈した
この長州砲は 天保15年(1844) 萩藩(長州藩)鋳砲家郡司喜平次の手になるもので 幕末日本人の危機感を象徴するものです 以下略   引用



関門海峡に来たのは2度目です

日本の歴史の大きな転換点が 3度もこの海峡で あったのですね

壇ノ浦合戦のあと 公家社会から武家政治へと 変わりました

巌流島は 戦国時代も終わり 徳川の時代になり 剣術で士官するという時代は終わろうとしていた そんな時代でのことです
世の中安定期になりつつあり 藩の経営のできる文官が幅を利かせる世の中になっていくのです

幕末 馬関戦争のあと 長州は尊皇攘夷から尊皇倒幕に方針転換し 明治維新へと時代が動いたのです

不思議な場所です
ひきつける力があるのかしら


みもすそ川公園には 松本清張文学碑もあります
清張は幼少期にこのあたりに住んでいたそうです
家の真ん前の対岸に和布刈り神社が見えたそうです

関門橋の端のすぐ下に和布刈り神社が見えています

対岸の和布刈り神社


↓ 2006年1月火の山展望台から撮影の関門海峡
右下に見えている白いコンクリートの建物のところから関門海底トンネルに入ります



いよいと次回 トンネルを歩いて 福岡県門司市へ行きます
お楽しみに

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カメラ機種名 Canon PowerShot S120
撮影日時 2015/05/13



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コメント

NoTitle

青春を過ごした土地です
何回見ても 聞いても よいところです。
懐かしくうれしく拝見
門司小倉を制すれば 九州を制す
長州は そうしましたね。

2015/06/15 (Mon) 21:00 | 小紋 #- | URL | 編集
小紋さんへ

小紋さんは 下関育ちだったのですか いまは 福岡にお住まいですよね
関門海峡は 明石海峡よりもうんと狭いですね
関門橋は渡ったことがないので 渡りたいです

2015/06/16 (Tue) 11:09 | TOSSY #mXJ0wlpU | URL | 編集

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