 この写真は 大阪十三の町が 20年6月7日の空襲で燃えているのを 麦畑から眺めている所を描いた絵です 13日に 月1回母校で開かれている トークリレーに行った 今月のテーマは 大阪大空襲 戦争中 労働力が足らなくなったので 中学生 女学生は工場に 勤労動員された 当時 16歳で 動員先の工場で 空襲にあい 九死に一生を得た方が 今日の語り部だ  語り部は 当時 豊中高女(現桜塚高校)を4年終了で 三国にある工場で 戦闘機 「紫電改」のフラップを作っていた そこには 豊中高女のほかにも 北野中学の生徒の動員されていた これは 紫電改のプラモデルです  空襲警報が鳴り 急ごしらえの 防空壕に逃げるが そこに 焼夷弾が 降り注ぐ  壕を出て 麦畑に分散退避 急降下した爆撃機による 機銃掃射  彼女は腕を貫通され 動くことも出来ません 麦に火が移り このままでは焼けると必死で すこし離れた所まで逃げますが もう 動けません みんな 自分が逃げるのに精一杯 あきらめて横になっていた彼女は、やはり「生きたい」と思い ひとりのおじいさんに声をかけます そのおじいさんと もうひとり中学生が 彼女を抱えあげて 逃げてくれました 途中 爆撃で おじいさんはやられ 中学生は トタン板に彼女を乗せて 引きずって 運びました  彼女は 避難所に寝かされ やっと 病院に入ることが出来ます 電気の消えた真っ暗な病院 ここで 彼女は腕の切断を 軍医からいわれますが 母親が必死になって反対し 切らないで処置をしてもらい 阪大の 整形外科に入院することになるのです  提灯をつけて 集まっているところは 死んで行く人のところなのです このあたりまで 話がすすんだとき 最前列に座っていた年配の男性が グラリ!! 慌てて 横の方がささえ Dr.は いませんか? 床に寝かして救急車を待つ 語り部と同じ工場に 中学生で動員されていた方だ 当時のことを生々しく思いだされたのだろうか 再開された講演は 後日談へと進む 学校に 彼女たち 動員生徒の記録が何もないと知り 記録集を作ろうとした 戦争から30年がたっていた 写真など無いので みな 絵を描かれた 本を作られ その結果 勤労動員されて亡くなった方も 戦死者と同じく補償金が 支払われたそうです その絵が スライドで映し出された 当日の空襲で 女学生が7人 中学生が2人 亡くなった 心に残った言葉 「戦争を知らない子供たちという歌がありましたが 15年戦争で 私たちは戦争しか知らない子供たちでした」いまも 世界の紛争地帯では 戦争しか知らない子供達が 多勢いる とても悲しいことだ わが 母校は 次の空襲 15日に爆撃され 中学生2人がなくなった その弾痕の残る壁は 今もメモリアルウォールとして 保存されている   なくなった生徒がかぶっていた鉄兜  銃弾が 貫通しました 遺族から 学校に寄贈されました   こういう集まりには もっと若い人の参加が欲しいのだが 校庭ではクラブ活動をする生徒もいるが 今回は現役生の参加は無かった いつも講演をするのは 卒業生なのだが 今回は 他校出身者 助けた中学生が 卒業生 講演に先立って 昭和11年に撮影された 中学生の軍事訓練風景の filmが上映された 当時のfilmは非常に貴重だ 痛んでいたのを デジタル修復して 鮮明に写るようになった 映写したのを写したものです 福知山の陸軍の演習場での訓練風景です まだ 政局は 差し迫っていませんので 穏やかな表情です    追加です動画を追加します 16mm映写機が非常に高価だった時代 映像はあまりのこっていません 撮影されたのは 当時在学中の鴻池氏 同窓会に寄贈されました 上映中をコンデジの動画で写したもので 見ている人の声が入っています 当時を知る世代と戦争を知らない世代の会話です 重たい話題を 長々と つづってしまいました せめて 年に一度でも 学校にも行けず 戦争で死んでいった彼らのことを 思い出して 今の平和を 守らなければと思います 合掌リンク ひみ子の隠れ家さんが 「君死にたもうことなかれ」の前文を載せておられます 鹿児島の まるこさんも 語り部の幅氏を聞きに行かれて 俳句を読んでおられます 特攻の心にふれる暑い夏 ブログランキングに参加しています 応援してくださいね バナー または こちら FC2ブログランキングを プッチンと クリックしてね 今日も 応援 ありがとうございます m(__)m
・ by 栄ちゃん
今年も終戦記念日が来ますね。 平和って本当に大事なことだと思います。 団塊世代と言われる私達、田舎の小学校はもう廃校!統合で少なくなりました。 中学では一学年52人で11クラス有った教室は、全校生徒で225人になったそうです。 あの終戦で物が無く日本全国貧乏だった時代・・・でも優しさや思いやりがいっぱい有った様な気がします。 米の飯が食えなくて、ジャガイモやサツマイモがいっぱいの麦ご飯! 今日は休みで、田舎の両親が送ってくれたジャガイモを塩茹でにして食べましたが あの頃の思いが蘇るような気がしましたよ。美味しかった・・・ 本当に戦争は絶対起こしたりしてはいけませんね。 今日のニュースで言っていましたがこの60年間に世界で一度も戦争をしていないのは日本を含み6カ国らしいです。戦争の無い世の中になると良いですね。 母は台湾で映画館のお嬢さん、父はダムの所長の祖父、兼業の時計屋さんのボン! でもそれらをすべて投げ捨て命からがら日本への引き上げ同士!貧乏を絵に描いたような私の子供の頃の家でしたが、心豊かな大陸思考の両親の元、心元気を引き継いで元気なもんです。感謝やね。 世界平和!実現すると良いですね。(^_^) ・今晩は by sin5
お知らせいただいたのに遅くなって申しわけありません。 花火の写真とても素敵ですね。私は花火の写真撮った ことがないのですが、大体、人ごみが苦手で・・・・ それから、戦争の話興味深く読みました。私の母は戦争は大阪市内で 大阪大空襲を7歳で経験しており、私が子供の時には良く話を聞かされ ました。 最近世間的には右翼化が進んでいるように感じます。戦後教育の 極端な左翼傾向は如何なものかと思わないでもないのですが、 最近の安易な右翼的な議論には閉口することが多く、色々と 危機感をもっています。戦争の記憶を風化させないということは とても大事なことだと思うのですが、私に何が出来るのだろうと 考える今日この頃です。 ・ by ひまわり
はじめまして、ひみ子さんのところからやってまいりました。TBさせていただきました。若い人たちにももっと知っていただきたくて・・・ よろしくお願いいたします。 ・ by らぶなな
大阪大空襲のお話し、戦争は二度とおこして欲しくありません。 亡くなられた多くの方々の礎の元にこの平和があるのですね 当時3歳だった私も焼夷弾の嵐の中を、九死に一生を得ました。 60年の間に戦争のなかった国は数えるほどだそうですが、人間はなんと愚かなのでしょう。 ・雑誌に掲載されて by まるこ
大人の愉快団に掲載されました ・今年できたこと by まるこ
トッシーさん雑誌掲載 大人の愉快団お知らせありがとう 板垣美穂子さんの情報を探しています ブログの審査がとおってアフィリエイトができ、青汁の販売、許されました ・ by 龍
私は四月で70歳になります。 小学2年位の時に3?2?月13日に空襲にあいました。 当時家は谷町9丁目で重がん寺?の近くで学校は多分、上しょう町の東平小学校だったと思います。 知たいことは、私が通っていた幼稚園で空堀通りあたりに「きんよう幼稚園」が今もあるかどうかを教えてください。 あまりメール等詳しいことはわかりませんがおくります。 ・龍さまへ by TOSSY
コメント ありがとうございます 空襲の経験が おありなのですね 私は 空襲は全く知りませんし また 谷町あたりの地理には 詳しくないのですよ 谷町9丁目といえば 大阪城の近くですね 空堀通りは 以前に一度行ったことがありますが 幼稚園のことは存じません お役に立てなくて ごめんなさい ・ by 龍
お気ずかいすみません。 長い年月過ぎていますのでせんないことと思います。 今後ともよろしくお願い致します。 ・六陵トークリレー by のりみ
TOSSYさん 先日はお会いできて嬉しかったです。今回の六稜トークリレーは非常に充実。勢いあまって北野高校について長文のレポートを書いてしまいました。 というわけで、メモリアル・ウォールでトラバさせていただきます。今後ともどうぞよろしくお願いいたします(^^) ・管理人のみ閲覧できます by -
・ by mikiko
「戦争しか知らない子供」 辛すぎる言葉です。 第二次世界大戦最中に生まれた私、自分の子供たちと戦争について充分な話し合いをしたかしら。 考えてしまいます。 ・mikikoさんへ by TOSSY
読んでくださってありがとう 私も戦争については 直接には何も知らないのです でもこういったお話を発信することはできるので しています ・十三の空襲 by 西岡邦夫
私は昭和20年4月から京都で下宿、家族は父親を残し滋賀県に疎開、6月7日十三も空襲を受けた日も父親は出勤して誰もいない元今里南通二丁目(きたの中学の西二百メートル位の位置)の自宅は全焼しました。あとで焼け跡に行ったら、自分が使っていた勉強机の回転イスの金具が見つかり悲しいくも鬼畜アメリカの思いを強くしました。大阪はこの年の3月4日淀川より南側の大阪市の中心部がB29による大空襲を受け大きな被害を受けました。この時は十三の自宅にいて、夜空にサーチラートに照らされるB29の機影をみながら、空襲で夜空が真っ赤にそまった大阪の中心部を眺めていました。あれから60年以上たちますが、戦争は悲しいもので、平和の尊さを大事にしたいものです。 ・戦争を知らない世代 by 新之介
私は戦争を知らない世代です。父は戦時中は小さかったので父から戦争の話を聞いたことはありません。たぶん私も子供にできないでしょう。私たちは平和が当たり前になっています。世代が替わり、国民全員が戦争を知らない世代になってしまった時、戦争の過ちを次の世代にちゃんと伝えていけるのだろうかと思ってしまいました。 そして、ふと私自身も戦争時代のことに関心がなかったことに気づき、考えさせられました。 ・西岡邦夫さんへ by TOSSY
十三の空襲で全焼されたのですか 私の小さいころ十三には大きな建物は少なくて 十三大橋から 北野が 見えて 父や母が 「あそこが来たのだよ」って 言ってゆびさしました 我が家は 19年末まで 柏里に住んでいたそうです 父が 大阪は危ないといって 尼崎の塚口に引っ越したと聞いています 戦時中とて トラックなど軍部にしかなく 牛が引く荷車で家財を運んだそうです 人間は 阪急電車で行ったのでしょう この後の空襲で(3月か6月か知りません) 柏里の家は全焼したそうです 小学校の近くだったと言っていました 大阪大空襲は 塚口の家の2階の窓から見たと聞きました 父も母も すでに亡くなり 戦争を知っている人が どんどんとすくなくなっていっています 語り継ぐことは大切なことです ・新之介さんへ by TOSSY
私も戦争は知らないのです 戦後の貧しさは知っていますが・・ 日本の歴史を勉強すると こんなに長く平時が続いているのは まれなことですよね 徳川時代にあったぐらいでしょうか 世界も絶えず紛争を続けています 戦争しか知らない子供を作ってはいけないですよね」 平和をもっと大事にしないといけませんね
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